Ray(光線)のごとく、心に光を放つ企画・デザインを目指します。
生い立ち 経歴
1967年12月22日、愛媛県宇和島市において稀にみる大雪の日に2人兄妹の長男として生まれる。母曰く、生まれた時の体重は4000グラム、3ヶ月で歯が生えていたという。3歳の時に父を胃癌で亡くし、以降は母子家庭として育てられる。1983年、愛媛県立宇和島南高等学校に入学。在学中は軟式テニス部に所属。在学時に数学だけが得意だったこともあり、卒業後は情報処理系の専門学校へ進学。愛媛県松山市に身を置くことになる。
松山バブル時代(1986年〜)
情報処理系の専門学校在学中に、早期に商業簿記3級を取得するなど成績優秀だと評されていたにもかかわらず、人生の方向性に違和感を感じ、親族や周囲の猛反対を押し切って退学。もっと社会にまみれたいというのが主な理由。
しばらく、コンビニや親族が経営する水商売のチーフなどアルバイト生活を過ごす中で、当時の流通業界でトップであったダイエーのグループ会社、ダイエーフォトエンタープライズに中途入社。ダイエー南松山店に所属し、当時ブームだったフィルムを出して55分で現像し、写真をお渡しできるサービスや、カメラの販売を従事して中四国エリアにおいて下関店に次ぎ第二位の売り上げとなる。
接客業・サービス業について、夜の仕事経験の影響もあったのか特に接客が評価され20歳にして売場副主任に就任。中四国営業会議においては、ダイエー創業者であり当時社長であった中内 功氏の前で堂々と意見を投げたこともあった。
この時代に、仕入れや売上管理など店舗運営の基礎を学ぶこととなる。
しばらくして同じ松山市内の、24時間営業の大型アミューズメントストアに勤める知人から責任者として高待遇で迎えるから来てほしいと懇願され、これまた周囲の猛反対に遭いながらも転職を決意。
店舗のイベントにおいて、MC・司会などをしながらも売上管理や接客を行うなど多忙な日々を送ることになる。そしてこの店舗がFM愛媛の深夜番組のスポンサーであったこともあり、スポンサー生出演の番組企画で出演することになる。単発的なものと思っていたが、制作会社からの依頼で毎週レギュラーとして出演することになる。
その後、バブル後期を迎え店舗の経営悪化もありラジオ番組の制作会社であったイベント会社に転職することになる。イベントの企画や施行に関わりながらも番組出演は続いていたが、数人規模だった会社がバブルの影響で大型化し不動産部門やナイトレジャー部門など多岐にわたる経営展開とともに自社屋まで建てるほどの規模に成長した。そして、番組のクール終了とともに経営者の出身地である横浜市に東京支社を設立することになり出向するが、ほぼ出張の日々で長期間において東北地方や関東地方など主に東日本の地で従事していた。
横浜から奈良へ(1992年〜)
バブル時代も終焉を迎え退社。イベント会社も倒産した。退社したものの、個人負債が20代半ばにして数百万円ほどあったために「金になることはなんでもする」という意思で求人センターに飛び込んだところ、勧められたのが人材派遣会社を通してのライン工場勤務であった。勤務地は京都府加茂町、寮は奈良県奈良市であった。両地とも初めての地だった。当時の勤務条件は8時〜20時(時給1,600円)、20時〜8時(時給2,800円)の2交代制でプラスチックの射出成形工場で金型からコンベアで流れてくるプラスチック製品(主に自動車関連)のバリ取りの作業であった。寮には全国からワケありの人たちとの共同生活だったが、気がつけばリーダー的存在となっていた。2年ほどで負債を完済し、愛媛へ戻るはずだったが関西という地の楽しさや面白さに魅了され関西で新たな就職先を探すことになり、奈良県のイベント会社に就職することになる。
「この奈良の地で展開する新たな企画を」という経営者からの提案に対し、メディアが貧困な奈良という地域性を日頃から感じていたため「ラジオ局を開局させるか、タウン情報誌を発刊させる」という提案のうち、タウン情報誌を発刊させる企画が採用され、発刊することになった。ちなみに、現在も奈良県においては県域ラジオ局は存在せず、特に県域のAMラジオ局が存在しないのは全国で奈良県だけである。
office Ray 創業(1999年)
タウン情報誌は発刊したものの、メディア本来のあるべき姿と経営の違和感を感じて退職。20代前半でラジオというメディア業界にいたために感じたことでもあった。たまたま退職のタイミングで知人の企業経営者から「うちの店舗の広告デザインをしてくれ!独立したら応援してやる」と、背中を押されたのもあった。1995年頃に初めてパソコン(Macintosh)というものを触ることになった。
1999年9月、office Ray創業。「Ray」は、中学生時代に「愛羅武勇」などの漢字ブームがあり、好きな漢字一文字を探していたところ沢田研二の「麗人」という曲がTVで流れ、「麗」という文字の美しさに惹かれていたのとレイチャールズ(Ray Charles)が好きだったのが重なり、日本語で光線という意味であることも併せて、何か光を投じたいという思いから決めたことである。
事業展開
独立・創業へ背中を押された知人の企業経営者はNTTドコモの代理店であった。依頼は、折込チラシの広告デザインであった。当時「iモード」が全盛時で「とにかくインパクトを」という依頼で思い切った広告デザインを行い、広告デザインした奈良県郊外にある店舗が売上で関西2府4県の第7位に入り、NTTドコモ奈良支店長から評された。一部で「来週のチラシが楽しみ」という消費者の声もあったという。
その後、時代とともにWebデザインなどを独学で学び、制作・運営などを行う。またサービス業の店舗運営などの経験からサービス業に関わる店舗の装飾デザインやディレクター、コンサルティングにも関わっている。
特に現在はサービス業の経験を活かしながらITや経営学を学び、デザインを主とした時代に合うプロジェクトなどの企画・展開を行っている。
なお、経済産業省が2018年に「デザイン経営宣言」を宣言したが、以前からデザイン思考は経営に取り入れるべきだと語っていた。
エピソード
好きな言葉
「君子は義に悟り、小人は利に悟る」(論語より)
「前例がないというのは、アイデアがないという言い訳」(川淵三郎)
「時期尚早だというのは、やる気がないという言い訳」(川淵三郎)
「めんどくさいと思った時がやる時のサインである」(金本知憲)
「成功は99%の失敗に支えられた1%だ」(本田宗一郎)
「楽して得られる快感なし」(野村克也)
「ピンチの裏には必ずチャンスが隠れている」(永守重信)
「プロフェッショナルとは甘えが許されない人種である」(佐藤 卓)
「あきらめなかったものだけが残るのだ」
「一番の敵は自分である」
「停滞は衰退を意味する」
「ギリギリが一番おもしろい」
「しんどい時こそ笑っておけ」
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